「色即是空」
この言葉を聞いたことがある方は多いだろう。
般若心経に出てくるこの有名な言葉。
これは、この世の万物は形をもつが、その形は仮のもので、本質は空(くう)であり、不変のものではないという意
である。
では「空(くう)」とは何か?
インド仏教が生んだ「空の思想」は、この世にあるものすべては存在しない、と考える。
は?
である。
これだけ聞かされても、マジで意味が分からない。
神も世界も私すらも実在しないという「空」とは、いったい何か?
そして空の思想は現代の私たちに何を語りかけるのか?
今回の記事では、「とあるスポンサー社長」と「世界的有名なサイクリスト神ポガチャール」の会話から、空の哲学について掘り下げてみる。
※ポガチャル じゃなくてポガチャール?誰やねんそれ(怒)という方はコチラを参照↓
スポンサー社長とポガチャールの会話から見る「空」の哲学
ある時、スポンサー社長はポガチャールに向かってこう問いかけた。
お前がポガチャールだな?
ポガチャールは答えた。
はい、そう呼ばれています。
が、それは『名称、概念、慣用』でのことであり、そこには『ポガチャール』という実体はありません
・・・。
目の前にポガチャール本人がいるのに、「実態がない(空(くう)である)」とはどういうことか、
訝しがった社長は、重ねて問いかけた。
ポガチャール君、もしお前に実体がないというなら、誰が世界チャンピオンなのか?
誰が仕事や食事をするというのか。
お前をクビにしても、それは違法ではないということで良いのか。
だいたい、お前が『私はポガチャールと呼ばれています』というなら、そのポガチャールとはいったい何なのか。
その身体がポガチャールではないのかね?
いいえ、違います。
爪や歯や肉や骨がポガチャールなのではありません。
・・・。
では、見たり感じたりする認識作用、意識こそがポガチャールだというのだな?
いいえ、違います。
なんだと?
そうであれば、もうどこにもポガチャールを発見できないではないか。
お前はウソをついて私をからかっているのか?
全く要領を得ないポガチャールの回答に、社長は頭を抱えた。
すると、突然、ポガチャールは話題を変えた。
しかし、今日は暑いですねぇ。
そういえば、今日社長はここに来るのに、この熱い地面を踏みつけて徒歩で来たのですか?
いや、ロードバイクで来たが・・・
では、社長、今度はこちらから問いますが、
フレームがロードバイクなのですか?
いいや、違う。
フレームはフレームだろう。
では、ハンドルがロードバイクなのですか?
ホイールがロードバイクなのですか?
コンポがロードバイクなのですか?
いいや、違うな
その答えを聞いて、ポガチャールは笑って言った。
そうであるならば、もうどこにも『ロードバイク』なるものは発見できないではないですか。
社長は『ロードバイク』に乗ってきたとおっしゃいますが、
ウソをついて私をからかっているのですか?
うーむ、と社長は唸った。
なるほど、つまり、フレームによって、ハンドルによって、ホイールによって、ロードバイクという『名称、概念、慣用』が起きており、そこには『ロードバイク』という実態はない、そういうわけか。
実に結構です、社長!
あなたは『ロードバイク』というものを理解なさいました。
私もまた、爪や歯や肉や骨や意識によって、『ポガチャール』という確固たる実態が存在しているわけではないのです。
おめでとう!社長!!!
ほそく☆
解説しよう。
上記で述べているのは、
「ロードバイク」とは、ハンドルやペダルや車輪やサドルなどのたくさんの部品が組み合わさってできたものを「そう呼んでいる」だけのことであり「ロードバイクという独立した何か」がそこに存在しているわけではない、
といった感じである。
実際、ハンドルやペダルを外してバラバラに分解したら、
「ロードバイク」を外したわけでもないのに、そこから「ロードバイク」は消え失せてしまう。
これはつまり、「ロードバイク」という何かが、カチコチの確固たるものとして存在しているのではなく、ハンドルやペダルなどの部品の集まりをただ「ロードバイク」と呼んでいただけということである。
ところで、この話はロードバイクを構成している部品についても全く同様に適用することができる。
例えば「ハンドル」は確固たるものとして存在しているように思えるが、それだって実際には「アルミ原子」あるいは「炭素原子」等が集まって、そういう形になっているからそう呼ばれているだけで、「ハンドル」という確固たる何かがそこに存在しているわけではない。
原子をバラバラに分解したら、「ハンドル」はたちまち消え失せてしまうだろう。
では、ハンドルを構成する「原子」はさすがに確固たるものだろうか?
私たちはきほんてきに原子を「カチコチの丸い小さな粒」という確かな実態として認識しがちである。が、実はこれも「ロードバイク」や「ハンドル」と同等の存在だったりする。
話が長くなったが、とにかくここで言いたいことは、
「私たちが「存在している」と認識しているものは全て、私たち自身がそういうふうに存在するように『区別』しているからこそ、そういう風に存在しているのであり、決し『そういうもの(実態)があるから存在している』のではない」ということである。
そしてこのことは、逆に言い換えれば、
「そういう実態のないもの(区別のための境界線を引いたことで現れただけのもの)こそが、私たちにとって『存在するもの』なのだ」
ということである。
つまりは、色即是空、空即是色。
「色(物質)これすなわち空(実体がない)であり、空これすなわち色である」
存在には実体なく、その実態がないものこそが存在の正体なのである。
そして、これこそが空の哲学なのである!!!!
まとめ
今回の記事では、「とあるスポンサー社長」と「世界的有名なサイクリスト神ポガチャール」の会話から、空の哲学について掘り下げてみた。
色即是空とは、
一言で言えば、この世にあるすべてのものは、因と縁によって存在していて、本質はゼロであるということである。
般若心経では、この後「色即是空 空即是色」という風にフレーズが続く。
「この世のものすべてには実体がなく、同時に、その実体のないものが縁によって、私たちの目に見える存在になっている」
見えている景色は刻々と変化する。
そこに存在があるように見えて、次ぎの瞬間には変わってしまうような存在であるからこそ、「空である」としたのである。
その空もさまざまな縁があるから存在が見えるのだから、大切に毎日を過ごすべきという教えだ。
この教えが皆様のロードバイクライフの発展に寄与すれば幸いです。
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