妻は激怒した。
必ず、邪智暴虐な買い物をする場合は一言入れるよう夫を躾けねばならぬと決意した。
私には「 FTP 」がわからぬ。私は、神奈川県在住ののサラリーマンである。
数年前にロードバイクを購入し、平日の自転車通勤とたまの土日に会社のチャリ仲間と遊んで暮らして来た。
けれども「FTP」に対しては、人一倍に鈍感であった。
「FTP」とは”Functional Threshold Power”の略。
自転車に乗った者が1時間維持できる限界出力を指す。つまりはその人の戦闘力のようなものである。
FTPを計測するには少なくとも20分は全力でペダルを漕がなければならぬ。
(※FTPに関する記事参照。)
しかし、ここ「倭の国日本」で約20分間も脇目も振らず自転車を走らせるなど、
至極、危険極まりぬ。
つまるところ、「ローラー」が必要なのだ。
きょう未明、GROWTAC製 GT-ROLLER f3.2(下記参照)は物流センターを出発し、野を越え山を越え、十里離れた此の神奈川の市にやって来た。
数日前にポチった。
念願のハイブリッドローラーだ。
ローラーが有れば、20分と言わず、無制限にトレーニングが可能となる。
私には1歳9ヶ月の息子がいる。女房もいる。
地元埼玉から離れこの神奈川のアパートに3人暮らしだ。
妻が激怒する理由は想像に容易い。
ただでさえ3人には狭いこの家に、なにやら巨大な箱に詰められた鉄の塊が、
知らせもなく家に届けられ、「佐川の漢」に押印を強要されれば怒りが湧かぬ方が奇妙だ。
だが私には出来なかった。
買う前に妻に相談してしまえば、
それはローラー購入の夢絶たれること必至と思われた。
ローラーが家に届いているであろうその晩、
少し早めに退社した私は普段よりも ケイデンス を10程上げ帰路に就く。
今晩ローラーに乗るのが楽しみである。
愛車を駐輪場に止め、階段を登り、家のドアを開けた。
中の様子を怪しく思った。
家全体がひっそりしている。
廊下を歩いているうちに、呑気な私もだんだん不安になってきた。
寝室から物音がする。
息子を寝かしつけ終えた妻だ。
妻は、あたりをはばかる低声で、わずか言った。
「おどろいた。貴様は乱心か。」
「いいえ、乱心ではございませぬ。
表彰台に立ちたいという想いを、夢で終わらせたくないのです。」
聞いて、妻は激怒した。
「呆れた男だ。生かして置けぬ。」
たちまち私は束縛された。
スマホを調べられて、
購買履歴に更なるチャリグッズが出て来たので、
騒ぎが大きくなってしまった。
私は、この巨大なダンボールの前に引き出された。

暴君は静かに、けれども威厳をも以って問い詰めた。
その妻の顔は蒼白で、眉間の皺は、刻み込まれたように深かった。
「これを使って表彰台に立つのだ。」
と私は悪びれずに答えた。
「おまえがか?」
妻は憫笑した。
「言うな!」
と私はいきり立って反駁した。
「表章台に立つにはトレーニングは必須、
トレーニングにはローラーが必須なのだ。」
「だまれ、下賤の者。」
妻は、さっと顔を挙げて報いた。
「口では、どんな絵空事だって言える。
いまに、粗大ゴミになってから、泣いて詫わびたって聞かぬぞ。」
「ああ、君は悧巧だ。常識に囚われているがよい。
私は、ちゃんと死ぬる覚悟で居るのに。
毎日毎日踏んで踏んで踏みまくってやる。ただ、、、」
と言いかけて、私は足元に視線を落し瞬時ためらい、
「ただ、私に情をかけたいつもりなら、部屋の方隅を私にください。」
「ばかな。」
と暴君は、嗄れた声で低く笑った。
「とんでもないことを言うわい。家の中でやるつもりか。」
「そうです。ここでやるのです。」
私は必死で言い張った。
「表彰台ではなく、血祭りに上がるがよい。」
紆余曲折の末、環境は整った。
表彰台に上がるための戦いが、いま始まる。

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